当院の特徴
祇園の歴史と共にもうすぐ100年
当医院は、江戸時代中期から連綿と続いてきた医家です。
現院長で13代目とも14代目とも言われています。明治時代以降だけでも、頼島龍仙(文化9年生)、頼島元仙(天保5年生)、頼島稔(明治21年生)、頼島元(大正11年生)、そして現院長頼島敬(昭和33年生)で5代目となります(龍仙・元仙については山形郡医師会史参考)。
先々代頼島稔は、4歳の時父を、5歳の時祖父を相次いでチフスで亡くし、大変な苦学ののち熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)を卒業しました。その妻富子は東京女子医学専門学校(現東京女子医大)を優秀な成績で卒業しました。広島県出身者としては二人目の女医だったそうです。テレビドラマでは浅茅陽子さんが主演した女子医大の創立者吉岡弥生先生に大変可愛がられ、当時花形の細菌学教室に誘われたそうです。吉岡先生からのいまでは大変貴重な書簡も多く残っていますので、お目にかけたいと思います。稔は安佐郡医師会(当時)会長を計12年6代にわたって務めました。
先代頼島元は、祇園小学校、広島第一中学校、旧制広島高等学校を経て、京都帝国大学医学部を卒業し、頭部外傷の分類(荒木の分類)で有名な、荒木千里教授のもとで研鑽を積み、胸部外科、腹部外科、脳外科をおさめ、弱冠30歳の若さで高知日赤病院の外科部長を拝命しましたが、両親のたっての願いで帰郷しそのまま開業いたしました。バレーボールでは全日本強化チームに選抜されたこともあり文武両道の、生粋の外科医でした。
頼島医院は、かつては山県郡穴村(現安芸太田町)にあったそうですが今では写真なども残っていません。その後頼島稔・富子が結婚し、富子の父小田…開業地の千代田町川井(現北広島町)で共同開業、独立し高田郡北村(現安芸高田市)に移転開業、昭和4年、祇園に移転、死去された安藤幹太先生の医院を買い取り開業したそうです。以来80年余り祇園2丁目で医院を開設しておりました。途中、3回の増改築・新築を経ましたが、施設の手狭さや古さが目立ってきたため、平成21年3月23日、現在の祇園6丁目に移転いたしました。
以上述べましたように、とても古くてとても新しい医院です。
今後とも地域医療に安定的・献身的に従事し、かかりつけ医として広く深く皆様とかかわっていきたいと思っています。
身近な存在、何でも相談できる地域の皆様のかかりつけ医として、健康をサポートいたします。
私たちは、従来のような内科、
多職種連携で、皆様の生活を支えます。
当院では、患者様一人ひとりに最適な医療を提供するため、チーム医療を重視しています。複数の医師、看護師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚療法士、ケアマネジャー、介護福祉士など、それぞれの専門知識や技術を活かしながら多職種が連携し、患者さまやご家族の状況を共有し、きめ細やかなサポートを行います。
さらに、地域包括ケアセンターや関連病院と日頃から連携を行っており、入院・入所を必要とする患者様にも迅速・適切に対応しております。
安心して治療に専念できるよう、スタッフ一同、心を込めて対応いたします。
自分らしく、住み慣れた場所で過ごせるよう、寄り添う医療を提供します。
住み慣れた場所で、安心して生活を送りたい。そんな願いを叶えるために、多職種連携を行いながら、私たちは長年の経験と実績を活かし、あたたかな質の高い訪問診療・訪問看護・訪問リハビリを提供いたします。在宅看取り、緩和ケアなど含め、どんなことでもお気軽にご相談ください。